宇津貫みどりの会

宇津貫みどりの会
宇津貫あれこれ
 1.山の神
 2.地名
 3.人口
 4.花祭り
 5.炭を焼く
 6.新駅誕生
 7.花祭り
 8.住吉神社の謎
 9.住吉神社の算額
10.一枚の地図 
11.どんど焼き
12.めかご
13.七国峠
14.背負梯子
15.宇津貫の窯「かま」
16.江戸時代の宇津貫村
17.御殿峠
18.宇津貫の細石刃
19.小比企
20.宇津貫町の誕生
    
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里山
みどりの会

宇津貫あれこれ


                                    1.山の神


 宇津貫緑地内の尾根道に、山の神が祭ってある。元は、和田内の城所純太郎家の向いの山にあったという。その後、城所登氏宅の敷地内に移されたものを、十五年ほど前にいまの場所に勧請された。
 以来、宇津貫みどりの会の仕事始めに際して、年初にお参りをしている。今年も、一月十日、活動に先立って、ささやかな供物をそなえて、今年一年楽しく安全に活動ができるようにと祈った。
 日本人にとっての山は、たとえばドイツ語のHaufen(山)のように、単に一定の高さをもった土地の隆起を意味するだけではない。山には豊かな森があり、人々に恵みをもたらしてくれる場所なのだ。従って、山では、産土(うぶすな)神(がみ)が宿り山を守っていると考えた。その神の許しを得て初めて自然の恵みを戴くことができるのであり、それ故、怖れはばかり感謝の念を抱いてきたのだった。
 時代が下って稲作が発達すると、山の神は農業と結びつくようになった。春になると山から里へ降りてきて田の神となり、里の民に豊穣をもたらす。そうして、秋になると山へ帰って山の神となり、冬の間静かに鎮まる。これに応えて、里人は、旧暦の二月になると迎えの祭りを行い、十一月には見送りの祭りを営んできた。 このように、山の神は、豊かな実りをもたらす年神であり、里の民にとって大変近しい土着神(地祇)であった。そのため、大和の神々である天津神(あまつかみ)からは異端視され、嫉妬深い醜女や大蛇・妖怪の類だと見做されることもあった。『日本書紀』にも、「山神大蛇に化(な)りて道に当れり」と記されている。
 宇津貫の正月の行事に「山入り」があった。竹でつくった瓶子に酒を入れて山の神に供える。また、笹に御幣をつけて田や畑に立てる。こうして、山の神に里に降りてきてもらい、田の神として五穀豊穣をもたらしてもらうよう願うのだ。また、宇津貫和田内では、山の神の祭礼を九月十七日におこなってきたという。これは、収穫をもたらしてくれた神への感謝の祭であったのだろう。 ところで、男どもにとって、愛おしくも恐ろしい「山の神」はカミサンであろう。さて今ごろ、わがヤマノカミのご機嫌はいかがであろうか。クワバラ、クワバラ。                        属 雄二


                                   2.地名         このページのトップ

 地名の由来をつきとめることは難しい。「宇津貫」という地名が何に由来し、いつごろから使われ始めたのかわからない。 『新編武蔵風土記稿』の巻之百三多磨之十五に、宇津貫村についての記述がある。この書物は19世紀(文化・文政期)に編まれ、当時の関東一帯の状況を幅広く記述している。そこにも、「郷庄の唱を失へり」とあって、何々郷何々庄という名称がわからなくなってしまった、としか書かれていない。
 『多摩の地名と記紀と邪馬台国』(文芸社)の中で、著者の内田氏は、「二つの水流が最初に合流して兵衛川となるその合流地点を含む村である。ウツはウチと同義。この水流によってつくられる水田耕作地帯と丘陵の地方がこの村名の全意となる」と述べている。「ヌキ」については触れていない。また、この地は水田と陸田が半々であったようで、水田耕作地帯とは呼べそうにない。すぐには頷(うなづ)けない説明である。 『八王子地名考』(鈴木樹造著かたくら書店新書)には、「宇津貫町のウツヌキは、ウツナキ。ウツナキは、小楢・ブナ科」とある。
 確かに、広島県の方言では小楢をウツナキというようだ。また、『重訂本草綱目啓蒙』には、ウツナはくぬぎ櫟(くぬぎ)の異名であると記されている。小楢(こなら)と椚(くぬぎ)の違いがあるにしろ、この地にはこれらの樹木が多く、地名が植物に由来するとすることは一理あるようにみえる。しかし、なぜ広島の方言を持ち出さなければならないのかが釈然としない。単に音が似ているだけではないのだろうが・・・。
 以下、わたしの勝手な推測である。
 片倉に「釜貫」との地名があったことからしても、宇津貫は、ウツとヌキに分けて考える方がよさそうである。では、ウツとは何か。西多摩郡では、山中の獣が通る道を「ウツ」といっていた。宇津貫も、その昔は鬱蒼とした森や丘陵の地であったのだから、幾條もの獣道があったであろう。では、「ヌキ」はどうであろうか。かつて、山崩れの地形をヌキとかヌケといった。流水によってつくられた谷戸が散在するこの地にも、「ヌキ」が所々にあったのではあるまいか。
 この問題に関して、古文書など裏付けとなる史料が残されていないようである。よって、どう説いても推測の域を出ない。けれども、様々に推測をし、この自然に恵まれた地に思いをはせることは楽しい作業である。                                                                                                                            属 雄二


                                      3.人口         このページのトップ

 『新編武蔵風土記稿』の巻之百三に宇津貫村についての記述がある。それによると、宇津貫村は、東西・南北それぞれ13町(およそ1.4キロメートル)というから、2平方キロメートルほどの広さの村であったのだ。その地に、80戸ばかりの民家が散在していたという。隣接する片倉村が160戸、小比企村が140戸であったというから、宇津貫は当時からこじんまりした村であったのだろう。この稿では、宇津貫がどう変わってきたのかを、人口の推移から見てみよう。
 ここで断わっておく。現在の町割が、昔の宇津貫村・宇津貫町にそのまま対応したものではないので、一対一の対応はとれない。そこで、町名変更のあった1999年以降は、宇津貫町、兵衛1・2丁目、みなみ野2〜4丁目、七国1〜6丁目を旧宇津貫町に対応させることとする。
 宇津貫村は、八王子の中心から4キロメートほどしか離れていない。しかしながら、三方を丘陵に囲まれ、交通の便が悪かったこともあって、古来人口がなかなか増えなかったようである。水清く緑濃い、あたかも桃源郷のような里であったのだろう。
 南八王子開発の起工式が催されたのが1989年であった。この年の人口は、わずか1,069人(312世帯)でしかなかった。それは、いまの兵衛1丁目の人口よりも少ない数なのだ。その後は人口減少が続き、1999年初頭には872人になってしまう。200人近い減少である。
 1997年3月30日、「八王子みなみ野まちびらき」式典が挙行された。その2年後、1999年から年平均増加率が28.3%という爆発的な人口増が起きる。同時期の八王子市全体の増加率が1%に満たなかったことを考えると、この地域だけに、一気に人口集中が起きたのだった。
 こ別の言い方をすると、その10年間で八王子市全体では約4万人の増加であったのに対し、宇津貫では1万2千人もの増加を見た。つまり、市全体の増加分の3分の1近くを占めているのだ。もしこの状況が続くと、2015年には2万人弱になる。実に、鹿児島県の垂水市よりも大きい町になるのだ。
 何百年もの間、丘陵の中にうずもれてきた村が、わずか20年でひとつの市に変わった。谷戸はブルドーザーで平にならされ、樹林はなぎ倒されてしまった。それと引換えに得た居住区と、まだ残されている周辺の自然とをどう調和させるか、人々の知恵が試されているのかもしれない。に本文を入力してください。                                                                                                                             属 雄二    (資料:『統計八王子』)



                                                        4.花祭り         このページのトップ

 四月は八日の花祭から始まる。仏生会(ぶっしょうえ)とも灌仏会(かんぶつえ)ともいわれる、釈迦牟尼の誕生を祝う日だ。宇津貫でも、ヒメツバキと色とりどりの和紙で花御堂をつくってお参りをした。ヨモギでつくった花団子や甘茶が子どもの楽しみだったという。 
 お釈迦様の母の麻耶夫人が藍毘尼林(らんびにりん)に着かれたとき、産気をもよおされた。無憂樹(むゆうじゅ)の下に横たわれると、お釈迦さまが夫人の右脇からお生まれになったという。
 お釈迦さまは、世に出られるや、七歩あゆみ、天と地を指差して、「天上天下唯我独尊」とおっしゃったというのは有名な言い伝え。その時九頭の龍が天から降りてきて、お釈迦さまに香湯を注ぎ産湯とした。それが、誕生仏に甘茶をかける由来になっている。お釈迦様の誕生の様子を再現するのが花祭の祝い方だったのだ。宇津貫には二寺がある。禅宗臨済派の福昌寺と日蓮宗の法華寺である。四月八日、仏生会を見ようと、両寺を訪れてみた。
 福昌寺では、一般には開放せず、特定の檀家の方々が寺に集まり、寺舎の中でのみ祭事を行っている由であった。一方、法華寺では、四月の第一土曜日に花見を兼ねて花祭を祝っているとのこと。勤め人の多い今日、平日に人々が集うことが難しいためだ。ここにも農業から離れた「ムラの祭」の姿を見る。
 花祭に限らず、昔からの行事は旧暦によって行われてきた。旧暦の四月八日は、今年なら五月二十一日に当たる。かつては稲作と養蚕の仕事がいよいよ本格化する時期である。花祭は、秋の収穫まで続く大仕事の前のひと休みでもあったのだろう。農業の繁忙期の節目節目に、遊びを上手に生活に取り入れてきた先人の知恵に気づかされる。
 ところで、卯月は初ガツオが市場に出る季節だ。初物を珍重した江戸っ子はこんな川柳を詠んだ。 『誕生の指は松魚(かつお)と杜鵑(ほととぎす)』 
 押送り船と呼ばれた八丁櫓の快速船で運ばれた初鰹にはとんでもない高値がついた。サンピンと呼ばれた下級の武士の年俸が三両一分のころ、初鰹に三両もの高値がついたという。それでも、宵越しの金を持たない主義の職人たちは、先を競って初鰹を買い求めた。お釈迦さまは天を指差して、高いぞよ、とばかり初夏の風物を披露されたのだった。                            属 雄二
 



                                      5.炭を焼く         このページのトップ

 家庭で使われる燃料の第一は、かつて炭であった。石炭の粉を固めてできる練炭や豆炭といったものもあったけれども、炭は最も使いやすかった。何よりも火付きがよい。七輪で煮炊きをし、火鉢で暖をとった。宇津貫でプロパンガスが使われ始めたのが昭和35年(1960)ごろなので、それまで炭焼きは日々の生活にとって欠かせない仕事だった。以下は、八王子市みなみ野の「みなみ野自然塾」の塾長である橋山さんにお聞きした話をもとにした炭焼きの様子である。  炭の材料にする木は里山で伐った。クヌギ、コナラも使ったが、堅いカシの木が良質とされた。どの場所の木を伐採するかは、村の中であらかじめ決めてある。切り倒した木は萌芽更新をするので、15、6年もすると元の大きさに成長し、再び様々な用途の材として利用できる。村の周り15、6箇所に分けて伐採区域を定めておけば、永遠に続く、資源の循環が成立するのだ。
 炭焼きは、10人から15人くらいが組をつくっておこなった。材料の準備ができると窯入れに取りかかる。窯には、数回しか使えない簡易型のものと、何年にもわたって使用できる本格的なものとがあった。火をつけてから炭が焼き上がるまでに七、八日かかった。
 いつ火を止めて窯を開けるかが、炭焼きの成否を決める。早すぎれば芯が残ってしまうし、遅すぎれば炭ではなく灰になってしまう。その時点を煙の色が教えてくれる。焼き始めのうちは、木に水分が残っているので白い煙が出る。炭化が進むにつれて煙の色が青に変わっていき、焼き上がる頃には透明になるのだ。
 出来上がった炭を窯の中から取り出すのが、炭焼きの仕事の中で一番つらい作業だった。一週間も燃やし続けたのだから、窯の中だけでなく周囲も大層な高温になっている。手拭で口をおおって窯の中から炭を掻きだすのだが、息もできないほど熱い。10分と留まっていることができない。それでも次に炭焼きをしようと待っている人たちがいるので、窯が冷めるまで待っているわけにはいかなかった。炭焼きができるのは三月から五月一杯に限られているのだ。なぜなら、その後は稲作や養蚕の仕事が本格化するからだ。
 木から炭をつくり、燃料として利用する。そうしてできた灰を肥料にしてまた木を育てる。ここにも自然の中での循環が保たれており、里山と村人との強い結びつきを見ることができる。家庭で使用される燃料がガスや電気に替わったとはいえ、炭の燃えるあの匂いをいつまでも忘れたくないものである。                                                    属 雄二
                                                    


              6. 新駅誕生         このページのトップ

 平成9年(1997)年4月1日、JR横浜線八王子みなみ野駅が開業した。宇津貫の人々は、この日を90年も待ち続けたのだった。横浜線が東神奈川・八王子間に開通したのは、明治41年(1908年)9月23日のことだった。全長42.6kmに中間駅として、相原、橋本、淵野辺、原町田、長津田、中山、小机の7駅が配置された。小さな村であった宇津貫に駅が設けられることはなかった。
 当時、駅の建設は地元の負担で行わなければならなかった。相原駅は横濱鉄道鰍フ設立発起人の一人である青木正太郎が1500円の私費を投じることで造られたのだ。結局、横浜線は宇津貫を南北に両断するだけで、町民には汽車が走るのを眺めるだけの存在でしかなかった。
 横浜線は私鉄として出発した。明治27年、原善三郎ら生絲商人12人が、絹織物などの一大集散地である八王子から輸出港である横浜への物資と旅客の運送を目的として鉄道敷設の許可願を提出した。しかし、政府は、軍事的観点から鉄道を国有にすべきとの考えであったため、容易に認可されなかった。明治31年の許可願では、「政府は財源がないのに官営にこだわっている。早く建設することが大事なのだから民営でいいではないか」と主張した。事実、日露戦争のために国庫は破綻寸前になっていたのだ。横浜実業銀行などからの借入で会社を存続させ、紆余曲折を経て、ようやく明治39年12月14日、敷設本免許状を受領したのだった。
 それから2年、総工費235万円をかけて開業にこぎつけた。ところが、輸送の主力は現在の中央線へすでに移ってしまっており、横浜線は採算のとれる状況になかった。たとえば、橋本駅の1日平均乗降客は、わずか37人という有様で、開通初年度の運賃収入は1万9千円にすぎなかった。やむなく、明治43年3月に鉄道院に全線を貸し出すという手段をとった後、結局、大正6年、政府に270万円ほどで売却せざるを得なかった。その後、国鉄がJRに変わっても、宇津貫に駅のできる気配はまったくなかった。汽車が電車になっても、宇津貫の町の真ん中を通り過ぎていくばかりであった。
 八王子ニュータウンの開発が着工された後の平成2年、「八王子ニュータウン新駅設置協議会」が結成され、町の人々は新駅建設の悲願を成就すべく行動を開始した。その結果、交通の便に恵まれなかった宇津貫に、 十日市場、成瀬、古淵につづく四番目の請願駅として、「八王子みなみ野駅」が誕生したのだった。                                      属 雄二 




                                                          7.熊野神社         このページのトップ


 熊野神社
 宇津貫第一の宮は熊野神社である。JR横浜線八王子みなみ野駅の東口を出て、兵衛川に沿って、上流方向へ10分ほど進むと、熊野神社の参道入り口に達する。
 石の鳥居をくぐって、石段を三十段ばかり登ると、左手にラッパイチョウがある。その名のとおり、葉のいくつかがラッパの形になる公 ここからさらに三十五段を、途中十体の石仏を見ながら登ると、境内にたどりつく。左手に寛延四年(1751)の記年銘のある角石塔がある。19世紀初めに編纂された『新編武蔵風土記稿』には、「第六天社除地凡一段三畝歩小名芝ノ上にあり小社」と記されている。小社とはいえ、広さが1289uもあったのだから、今よりもはるかに広い敷地に祀られていたのだ。
 拝殿の前に、八王子最古といわれる狛犬がある。一般にみられるような獅子や狗の形をしていなくて、獅子の顔だけが彫られているように見える。見ようによっては、猿のようにも見える。ただ、右は「阿(あ)」で左は「吽(うん)」の表情をしているので、狛犬であることには間違いない。
 神社の古文書が収納されていた箱の表書には、大六天、赤山大権現、津島牛頭天王宮、熊野大権現としたためられていた由。このように様々な神が一緒に祀られるようになったのは、飢饉と大いに関係があるのだろう。天明の大飢饉(1782〜1787)や天保の大飢饉(1833〜1839)が村を襲い、更に、安政五年(1858)には八王子でもコロリ(コレラ)が大流行した。そのような危機に見舞われる度に、村人は、霊験あらたかと聞く神々を勧請してきたのではあるまいか。嘉永二年(1849)の『山王社札銘文』には、すでに「熊野宮」と記されているので、この頃、最後に勧請した熊野大権現を宮の名に冠したのだろう。
本殿の裏は手入れのよい杉林になっている。鎮守社の多くは、村のはずれの水源近くに設けられ、入らずの森に囲まれている。この社は、19世紀の半ばに移されているので、そのときに森から離れたのだろう。
 社殿の脇に座っていたら、中年の婦人が拝殿に近寄ってこられた。二礼二拍手一礼の作法どおりに参拝し、軽い足取りで辞していかれた。町がどれほど変貌しても、この地に住んでいる人々にとって、熊野神社は鎮守の社であることに変わりがないのだ。
                                                                     属 雄二  




           8.住吉神社の謎         このページのトップ

 宇津貫の北隣に片倉がある。宇津貫が巾着ならば、その口にあたる位置だ。古来、宇津貫と片倉は出作・入作という緊密な関係にあった。互いに農業生産を助け合ってきたのだ。また、例えば城所定右衛門家のように、両所に土地をもっていた家もあったという。(『八王子市史』)
 この地の中心になる片倉城跡は、八王子城や滝山城ほどには有名ではないものの、中世の城跡であり、都の指定史跡にもなっている。ただし不明な点が多く、築城主が誰であるかという問題一つにしても、大江備中守師親であるとも、長井大膳太夫道広であるともいい、両者とも大江氏の家系ではあるが、判然としない。
 この地は、もともと武蔵七党の一派である横山氏の所領であった。牧で馬を飼い、朝廷に献上していた。坂東武者発祥の地だったのだ。ところが、建保元年(1213)、和田義盛の乱に際し、横山時兼が和田一党に与して鎌倉幕府に敗れ、横山党は滅亡した。この時政所別当であった大江広元に、愛甲荘とともに横山荘が論功行賞として授けられたのだった。以後、後北条氏の支配になるまでこの状況が続いたことは、よく知られている。
  この城の本丸の下に住吉神社が祀られている。鬼門の位置にあるので、城の鎮めの社であろう。この社もいつ誰によって建立されたものかわからない。また、海の神である住吉神社をなぜ祀ったのか。拝殿の破風に「一文字三星」の神紋が施されている。この紋は大江氏一族の紋ではあるが、この宮にある紋は大江氏が使っていた紋とは形が異なる。毛利氏の萩本藩の紋の形をしているのだ。けだし、毛利元就による弘治三年(1557)の防長経略後に、長門の住吉神社(下関市)から勧請されたのだろうか。
 毛利氏の祖は、大江広元の第四子であった毛利(大江)季光である。また、長門住吉神社は毛利氏の氏神であり、その神紋も一文字三星である。拝殿の横にまわると、寄進を記録した幾枚かの札がかかっている。その中に、「長門国一ノ宮住吉神社の額」と記されている一枚がある。これらのことは、この社が長門からの勧請であることを示唆しているように思えるものの、確証をもてない。 城山の上に登ってみると、その縄張りは16世紀よりも古いものに思われる。では、城が築かれたときには、いまとは違う神社が祀られていたのだろうか。それを、後北条氏の支配に移った時に、新たに住吉神社を建てたのであろうか。この謎を明かす史料があれば、ぜひお教え願いたいものである。      属 雄二



           9.住吉神社の算額         このページのトップ

 日本で数学がいつごろから使われ始めたのか、正確な年代は不明である。しかし、次の大友家持の歌の中で、八十一と記して、「くく」と読ませていることからも、奈良時代にはすでに「九九」が知られていたことがわかる。
 「足引乃許乃間立八十一雀公鳥 如此聞始而後将恋可聞」(あしひきのこのまたちくくほととぎす かくききそめてのちこいむかも)万葉集には他にも似たような表記が多くあり、九九は貴族の間には広まっていたようだ。ただし、数学が一般庶民にまで普及していたとは認められない。
 室町時代になると、そろばんが伝来した。この頃から商業も発達してきたので、それに伴ってそろばんの使用が一般庶民にも浸透し始めた。戦国大名たちにとっても、計算ができることは重要な資質であった。
  17世紀、江戸時代になると世の中が落ち着き、庶民の生活にも余裕が生まれてきた。人々は、発句・俳句にいそしみ、回文をつくることも盛んにおこなわれた。和算(日本の数学)もその一つであった。同じ趣味の人々が相集い仲間づくりをした。そこには、士農工商という身分の差はなく、江戸人は誠に遊び上手であった。そのような中で、和算は実用から離れ、問題を解くことそのものを楽しむ対象となっていった。むずかしい問題ほど解くのに時間がかかるので、より喜ばれた。そのレベルは高く、微分・積分に近いところにまで到達していた。
 極めて日本的な現象は、和算も、華道や茶道のように流派がつくられたことである。たとえば、筆算を考え出した関孝和(1642〜1708)に発して、関流を唱える和算家たちが多く生まれたのだった。 
 趣味が高じると、その成果を世に問いたくなるのは人情であろう。かといって、出版は多くの費用がかかる。そこで考え出されたのが算額だった。算額とは、数学の問題を板に記して神社仏閣に奉納した絵馬である。現在も9百枚以上が残されている。算額を奉納することによって、和算に長じることができたことを神仏に感謝し、また、世の人々と数学の力を競いあった。江戸人は数学好きだったのだ。片倉の住吉神社には、地元の和算家である川端元右衛門によって、嘉永四年(1851)に奉納された算額が保存されている。その中に次のような問題がある。ぜひ挑戦してください。「如図有空責 問等円径 答云等円径若干」
 (図のように、互いに外接する2つの円と、その共通接線によって囲まれた部分の面積をSとすれば、等円の直径はいくらになるか。) 

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         <引用:『多摩の算額』佐藤健一著 研成社> 
                                                                                               




           10.一枚の地図          このページのトップ
 
 明治15年の地図を見ている。「神奈川県武蔵国南多摩郡鑓水村及相模国高座郡橋本村」と記されている。この地図は、明治13年から19年にかけて、関東平野のほぼ全域と房総・三浦両半島を対象に作成された。何色かの水彩絵具で市街地や山林などを塗り分けてあり、フランス式彩色図とも呼ばれている。この地図をながめながら、当時の宇津貫村の様子をあれこれ想像するのは楽しいものだ。
 村は、丘陵の中に隠れるようにして枝を伸ばしている谷戸にあった。主な谷戸は六ヶ所。下、中村、菖蒲、君田、和田内、閑道と呼ばれた。それぞれの谷戸にはさらに小さい谷戸が附属しており、この地には九十九谷戸あるといわれていたそうだ。谷戸の数が百に一つ欠けていなければ、この地を都としたろうに、と源頼朝がいったという逸話は、作り話にしてもおかしい。
  家屋は山裾に沿ってのみ建てられている。谷底には水が溜まりやすいので、それを避けている。水田が谷戸の奥に造られているのも同じ理由からだ。そのため、昭和になっても、人力で田に水を運んでいた。村の総生産高を米に換算していたように、日本人にとって米は命の綱であり、米作りには涙ぐましい努力を注いできたのだ。
 村のあちこちに新たに切り開いた場所がある。江戸時代、村人が新田の開発に励んだ痕跡だ。宇津貫では「アラク」という地名をつけられていた。突き当りが直線になっていることから、それと知れる(地図上の赤線)。また、村の南西の山の中に隠田と思われる水田が三ヶ所見える。
 開墾には多大な資本と労力が必要である。それでも村人が新田開発を進めたのは、18世紀以降検地がなされることが少なく、新田での収穫に年貢が課されることがなく、そっくり自分たちの収入になったからだ。更に、農法の改良により、単位面積当たりの収量が増えても、町中に住む支配者が知るところとはならず、その分農民が潤うことができたのだった。江戸時代の年貢は、テレビの時代劇ほどには過酷ではなかったのだ。宇津貫の村高が、寛文7(1667)年には194石5斗余りであり、それが、天保(19世紀初頭)になっても変わらないとされているのも、上記の理由からだとすると頷ける。
 地図に戻ろう。村の生活域は240ヘクタールほどであったろう。簡便に計算してみると、村の約67%が山林であった。そこに、79戸400人ほどの人々が住んでいたのだ。空から見ると、村が樹林の中に埋もれているように見えただろう。そのような風景が、ニュータウンの開発までおよそ保たれたのだとしたら、あるいは、この地はシャングリラだったのかも知れない。
                                                                    属 雄二 
        



           11.どんど焼き         このページのトップ

 正月十六日の午後、宇津貫公園の広場でどんど焼きが催された。周辺の家々から親子連れが集まってくる。子どもの手には、先端に米の団子がつけられた1メートル半ほどの枝が握られている。この枝を火にかざして、団子をあぶるのだ。
 どんど焼きがいつごろから行われるようになったかははっきりしない。平安時代、宮中において左義長(さぎちょう)という火祭りの行事がすでにあった。清涼殿の庭に青竹を立てて扇などを結び付け、御吉書(正月二日に書かれた書)と一緒に焼いた。また、『徒然草』にも、「さぎ丁は正月打ちたる毬丁(ぎっちょう)を真言院より神泉苑へ出でて焼き上ぐる也。」 (第180段)とある。これが、小正月の行事として民衆の間に広まったものらしい。
 このように古来からの行事であるためか、どんど焼きは、ほぼ全国で行われる行事になっている。それだけに、その呼び名も様々である。トンドヤキ、サイトヤキやサンクロウなどの他に、九州ではホッケンギョウと呼んでいるようだ。
  この火祭りが小正月祝いのひとつとなるに及んで、その意味合いも、各地の風俗と結びついて様々に変わっていった。注連縄や門松などの正月飾りを焼き、正月に迎えた歳神様を送り出すとする所は多い。その他には、火の燃え方や心棒の倒れた方向でその年の作柄を占ったり、鳥追いの行事と結びついたりしている地方もある。
 関東や中部地方では、道祖神の祭として祝われることが多い。道祖神、つまりサイノカミ信仰と結びついて、無病息災を願う祭となっている。サイノカミ(賽ノ神)は、「道祖佐部乃加美」と記され、古くから境界の神・道の神として信仰されてきた。その後、防災、縁結び、夫婦和合の神ともされて、村の境に単体または男女二体で祀られるようになった。最近では場所もないため少なくなったけれども、どんど焼きが村境の空地や田んぼでかつて行われていたのはこれに由来する。
 宇津貫公園では、安全のためか、高く心棒を立てないで小さな熾きの山がつくってあった。それでも火力は相当で、そばに寄るとすぐに顔が火照る。子どもが、四方八方から、団子を刺した枝を火の上に突き出している。その横では、焼けた団子をうれしそうにかじっている。ポテトチップスを食べている時とは違った味をよろこんでいるように見える。親子を見守るようにとりまいて、老人会の方々が甘酒の接待をされている。いまはニュータウンと化したこの町に、新しい人々のつながりが生まれるのかも知れない。                                                                                              属 雄二



           12.めかご         このページのトップ
 めかい(目籠)
 日本は竹の国である。縄文の昔から、人々は竹や笹を様々に利用してきた。青森の是川遺跡から出土した籃胎漆器(らんたいしっき)が、そのことを示している。
 目籠という竹籠も、竹・笹の利用の例である。
 宇津貫では、一帯に繁茂している篠竹を六つ目に編んで笊や籠をつくった。竹の水分が少なくなる冬になると篠竹刈りをする。それを割って、メカイボウチョウという特別な刃物でヘネ(骨)と呼ばれるヒゴを作り、籠を編む。この地では、その籠を「メカイ」と呼ぶ。メカイは、文化・文政の頃(19世紀の初め)宇津貫村で作られ始めたのが初めだと伝えられている。その技術が、嘉永年間(19世紀半ば)には多摩村へ、その後鶴川村や七生村など多摩一帯へと広まった。
  かつて農家の現金収入は限られていた。宇津貫では、夏は養蚕、冬はメカイが大きい収入源であった。簡単なメカイは子どもにも作ることができた。小学校から帰ってくると、集いあってメカイを作るのが子らの日課になっていた。
 シキメカイという、籠の底部だけのものは、煮魚用として使われた。これを使うと荷崩れを防げるので、築地の魚市場で飛ぶように売れた。ジョウメと呼ばれる複雑なものは、主に料理屋で使われていた。今は、メカイが業として作られることも、日常に使用されることもなくなってしまった。それでも、八王子の本郷横丁にある伊勢久という竹製品の店では目籠を売っている。ただし、それは、中国からの輸入品だそうだ。
 メカイに関わるおもしろい風習が宇津貫にある。2月8日と12月8日に一つ目小僧がやってきて、履物に印をつける。印をつけられると病にかかるので、すべての履物を家の中に仕舞い込んだ。一つ目小僧除けには、メカイを紐にかけ、輪にして家の戸口に吊るす。このときのメカイの目は、一つ目小僧の目よりも細かいのがよいとされた。屋内ではタワラグミを火じろ(囲炉裏)で一晩中燃やした。この日は物日として、白飯やごった煮などのご馳走を食べる日でもあったのだ。このような風習が生まれたのも、メカゴは神が宿る依り代だとされたからだろう。
 昨今、宇津貫みどりの会の有志が地元の子どもに、メカイの作り方を教えている。この地で生まれた伝統技術が、絶えることなく次の世代へと引き継がれていこうとしているのだ。メカイ作りをしながら、一木一草をもおろそかにしない先人の生活ぶりを知ることで、子どもが地域の文化に触れてくれるとは喜ばしいことだ。
                                                                     属 雄二




           13.七国峠           このページのトップ

 みなみ野シティの南西に、「七国峠」と呼ばれる小高い峠がある。土地の人たちは、「大七国」と呼ぶ。この峠を通る道は、かつて「津久井中野道」という鎌倉古道の脇道であった。いまも、その証である切り通しがかすかに残っている。この往還は、八王子と神奈川県の津久井を結ぶ幹線道路であった。宝暦年間(18世紀)になると、一帯に糸取引が広まり、往来がますます盛んになっていった。しかし、明治43年、八王子上野町と町田市相原町真米を結ぶ大船新道ができてからは、さびれた田舎道になってしまった。
 津久井中野道の途中、いま「さゆり保育園」がある辺りに、高さ182メートルの「オオカミ山」があった。この山には人語を解するオオカミの一族が棲んでいて、時にいたずらをして里人を困らせた。それでも、子どもが産まれたときに祝餅や小豆飯を供えると、オオカミは情誼にあついので、その子を守ってくれた。お陰で、その子はオオカミのように賢い子に育ったという。宇津貫につたわる、数少ない昔話の一つである。
 いま七国峠を行くには、たとえば、大船給水塔の裏から登って、樹林の中の細道を辿ることになる。幅1メートル余りの道で、耳に聞こえるのは鳥の鳴き声と風の音ばかり。峠の頂上まで、ゆっくり歩いても30分とかからない。みどりを楽しむには、最適な散策コースだ。
 頂上は狭い平地になっている。そこに、石造りの大日如来坐像が祀られている。この座像は、江戸時代には、相原の七国山清眼寺覚王院の末である大日堂の持ち物で、山の中腹にあった。その後、明治39年の勅令に端を発する神社の統廃合政策により、大日堂が御岳神社、日枝神社と統合されて三社神社となり、坐像もそこに移されたのだった。 
 ところが、その頃、この辺りに疫病が流行った。村人の多くが患い、亡くなる者も出る始末であった。これを憂いた若衆が座像を背に負い、七国峠の頂上まで運び安置した。そうして疫病が止むことを祈願したところ、さしもの疫病も徐々に治まったそうだ。村の人たちは大日如来のご利益に感謝し、いまも相原町真米の人たちによって大切に奉られている。  
 大日如来の小祠の東寄りに、八王子を見渡せる開けた場所がある。ここからは、昨年できたサザンスカイタワーを中心に、街が盆地の底に広がっているように見える。それが私たちの町八王子なのだ。
 山笑う季節。皆様も、森林浴を楽しみに七国峠へお出かけください。    
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           14.背負梯子         このページのトップ

 昨今、「里山」がもてはやされている。唱歌『故郷(ふるさと)』で、「兎追ひしかの山、小鮒釣りしかの川」と歌われる風景を想い描き、減っていく自然を惜しむ人たちが増えているのだろう。里山には棚田が連なり、周りを雑木林が取り囲み、足元には清らかな小川が流れている。外から眺めると、のどかな日本の原風景ともいえようが、そこで営まれた生活は、実際どのようなものであったのだろう。
 昭和30年代まで、農業は主要な産業であった。里に住む多くの人たちは農業で生計を立てており、里山を、智恵をもって上手に利用してきたのだった。樹林の高木は建材として、亜高木は燃料に、そして低木は主に肥料に使った。また、コナラやクヌギなどの落葉は、発酵させて堆肥をつくる。それは、農作にはなくてはならない肥料で、いまも使用されている。
 「クズを掃く」という、落葉をかき集める作業は、晩秋からの重要な仕事だった。その時活躍した道具が背負籠や背負梯子だった。日本の丘陵は急峻だから、これらの農具は農業にとって不可欠なものだ。地元によると、御殿山のてっぺんから、一度に十貫目(40s弱)もの落葉を背負って持ち帰ったそうだ。田植えの前には、1アールの田んぼに100sもの刈敷(若木の枝や草など)を鋤きこんだのだから、厳しい重労働だったのだ。
 背負梯子(関東では、せおうが訛ってショイコとも呼んだ)の構造は、実にシンプルだ。まず木の枠をつくる。山で使うものは70センチ程度の高さに、平地用は身長を超える高さにつくる。これに、負い縄と荷張り縄を取り付ければ出来上がり。
  背負梯子の形態は、添付の地図に表れているように、日本の東西ではっきり異なっている。西日本の梯子には爪と呼ばれる腕木が附けられる。朝鮮半島の自然木を利用したチゲにも同じような腕木があるが、これとは系統が違うらしい。一方、東日本の梯子には爪(腕木)がない。
 荷を背負梯子に附けるには、荷の形に応じての工夫がいる。木の枝のようなものは、寝かせた梯子の上に積み上げ、荷張り縄で縛ればよい。クズ(落葉)のようにこぼれる恐れがあるものを運ぶ時には、目無籠のような竹籠を梯子に取り付けた。他の運搬具との組み合わせで、どのようなものも楽に運べるようにした工夫が見て取れる。
 里山からの恵みで道具をつくり、果実を消費する。そうして、残滓をまた里山に返す。すべてのものを、無駄なく、賢く利用してきた先人の知恵を、背負梯子からも教えられる。     属 雄二
                                                                           




           15.宇津貫の窯「かま」         このページのトップ

 8世紀、日本は内憂外患にあえいでいた。朝鮮を統一した新羅との関係は悪化するばかりであった。国内では、天平七年(735)、凶作に加えて天然痘が流行した。また、天平十二年には藤原広嗣が筑紫で反を起こしたのだった。
 仏教をもって国を治めようとしていた聖武天皇は、天平十三年(741)、外敵退散、国家安寧、五穀豊饒を願って、全国に寺院の建立を命ずる詔勅を発した。これに従い、「金光明四天王護国之寺」には僧侶20人が、「法華滅罪之寺」には尼僧10人が配置された。
 武蔵の国では、今の国分寺市に両寺院が建造された。その規模は、東西2q、南北1.5qに及ぶ、諸国の国分寺の中でも最大級のものであった。建造物も、たとえば僧寺金堂は、間口七間[](36)、奥行四間(17)という大伽藍であった。そこに使われた瓦は、補修用も含めると、100万枚にも上ると思われる。それらの瓦は、末野窯群、南比企窯群、東金子窯群そして南多摩窯群で焼かれた。
 南多摩窯群に属する御殿山窯群は、七国峠から鑓水にかけて、宇津貫の南に連なる丘陵地の各所に築かれた。1990年から1999年にかけて、御殿山窯跡の大規模な調査が実施された。その結果、宇津貫でも、窯跡47基、造りかけの窯跡3基、工房や住居跡が12軒発見された。われわれの活動区域である宇津貫緑地でもG50G51の2基の窯跡が見つかっている。
   この地に多くの窯が築かれた理由として、次の三点が考えられる。
    @ 宇津貫の谷戸の斜面が、登り窯を築くのに最適であった。土師器[はじき]と違って、須恵器[すえき]や瓦を焼くには1100
       もの高温が必要で、登り窯が不可欠なのだ。
     A 高温をもって焼き物をつくるには、夥しい量の木炭を必要とした。それを可能にしたのが、宇津貫の豊かな樹林だった。
    B そして何よりも大切なのは、瓦や須恵器の材料となる粘土である。宇津貫の南部では良質の粘土がとれたのだ。今もその
       土を使用している作陶家があると聞く。
 このように、宇津貫は、遠い奈良の昔には窯業を営む一大工業団地だったのだ。ところが、操業を続けるうちに、燃料を得るために樹木が次々に切り倒され、は禿山へと化していった。国分寺の衰退とも相まって、宇津貫の窯は、平安期には消滅してしまったのではないかと想像されるのだ。                                                                      属 雄二




           16.江戸時代の宇津貫村         このページのトップ

 江戸時代、宇津貫村の人々はどのような暮らしをしていたのだろうか。それを知るための便(よすが)は、残念ながら大変少ない。まず挙げられる史料は、『新編武蔵風土記稿』である。これは、19世紀の初めに刊行された、武蔵国の地誌であり、人々の生活ぶりには触れられていない。
 同書には、明治元年の記録として、尺貫法で村高が記されている。それを、米1石150sとしてメートル法に換算すると、宇津貫村の生産高は以下のようになる。
 村高(雑穀も含めた生産高を米に換算した量):29,185s   取米(年貢):6,020s
 永(永楽銭による税金を米に換算):820s
  (注)幕末には諸物価が乱高下した。そのため、通貨の価値を定めることが非常に困難である。ここではあくまで一例として、米価は4斗を1両、1両は永楽銭1,000文として計算した。
 これによると、年貢の割合は23.4%であり、宇津貫村のような旗本領ではそれほど過酷な年貢率ではなかったことが知れる。この頃の宇津貫村には、68軒381人の人々が住んでいた。つまり、年貢納付後の収量は、1軒当たり329s、一人当たり59sとなる。因みに、近隣の村では次のようになる。片倉村:67s/人、小比企村:116s/人、北野村:106s/人。
 以上のことから、宇津貫村の生活は、次のようであったと想像しても当たらずとも遠からずといえるであろう。
 @年貢納付後の一人当たりの村高が59sである。当時、人一人が一年間に必要とされた穀物の量が約60sとされているので、飢えることは少なかったであろう。
A一般に、領主に対して農民はその生産高を過少申告していた。また、明治時代中頃の地図を見ると、隠田らしき田が認められる。よって、実際の生産高は、ここに記されている以上のものであったろう。
B宇津貫村では自給自足が成り立っていた。さらに、副業による若干の現金収入もあったであろう。よって、日常は雑穀を食していたにせよ、晴れの日には米を食べることができた。また、村祭りなどを楽しむ程度の生活のゆとりがあったのではあるまいか。       属 雄二
                                                                  写真出典元 『F.ベアト写真集 1』(横浜開港資料館編、明石書店)




           17.御殿峠         このページのトップ

 宇津貫は二つの峠にはさまれている。西には七国峠があり、東には御殿峠が所在する。
 国道16号を八王子から相原方面に向かうと、片倉高入口のあたりから登りが急になってくる。東京工科大の前を通り過ぎて更に進むと、鑓水に至り、道の左側に山野美容芸術短大が現れる。その傍らの三叉路の交叉点に「御殿峠」との標識がある。かつて厚木往還と名付けられた古道は、この道よりもう少し西にあった。その道の名残として、いまも掘割状の遺構をところどころに見ることができる。この道は、鎌倉古道山の道の支道であり、武蔵と相模を結ぶ幹線であったのだ。
 御殿峠は、かつては「杉山峠」という名称であった。北條氏照の書簡に、「武相之境ニ候杉山峠ヲ取越へ」とある。氏照の祖父氏綱が滝山城の大石定久を攻めたときには、相州当麻宿を拠点として、まずこの峠一帯を抑えている。また、永禄12年(1569)武田信玄が小田原を攻めた際、滝山城の囲いを解いた後この往還を南へ下っている。
 その後時代が下って天保11年(1840)、それまでにないほどの大勢の人々が八王子に集まり、杉山峠を越えてお伊勢参りに行った。見送りの人たちは、相原まで同道したという。更に明治17年(1884)8月7日、南多摩郡と高座郡の14か村の困民党の代表が御殿峠に集合している。その後8月10日には数千人が集結し、政府の施策に反対を唱えた。困民党事件は、明治6年(1873)7月の地租改正にその端を発する。時の政府が、地租を物納でなく、金納するようにと転換したのだった。
 ところで、御殿峠という名前はいつごろから使われ始めたのだろうか。
 明治15年に作成された「2万分1フランス式彩色地図」には杉山峠と記されており、明治42年作成の地では「御殿峠」に変わっている。このことからすると、明治の中頃からだったのかも知れない。また、なぜ「御殿」なのかについても諸説あり判然としない。藍原次郎高遠の館が御殿峠上の殿丸という場所にあったからだとも、八王子絹織物を取り扱った豪商片倉?八郎の屋敷があったからだともいう。いずれにせよ、御殿があった(?)場所に、いまは日本閣という結婚式場が建っている。
 この地に明治天皇が行幸されたことがあった。千人同心であった石川家に伝わる『石川日記』の明治13年(1880)6月17日の項に次のような記述がある。「天子様 御巡幸被遊候ニ付戸長議員袴羽織ニ而出迎ニ出ル」
 晩年、天皇はこのときのことを、次のように詠まれた。   『雪降れば駒に鞍をき野に山に遊びし昔思ひ出つつ』
                                                                           属 雄二



           18.宇津貫の細石刃「さいせきじん         このページのトップ

 かつて、日本人のルーツを探ることがブームになった。わたしたちの祖先が、どこからどのようにしてこの列島に渡って来たのか。北から来たのか、南からなのか。それとも、大陸から朝鮮半島を経由して渡来したのか。この問いは、わたしたちは何者なのだろうか、という問いでもある。それ故に人々の興味は尽きず、時として祖先捜しが流行るのだろう。
 昭和22年、敗戦直後で人々がまだ飢えに苦しんでいた頃、都立第四高女(現南多摩高校)の女生徒たちが、宇津貫・小比企で発掘調査を行った。それ以来、数度に渡ってこの地で遺跡調査が行われてきた。その結果、宇津貫でも旧石器時代に人が住んでいたことが明らかになったのだった。
 1985年から1991年までの間、八王子南部地区遺跡調査会によって、大規模な調査が実施された。調査結果は、『南八王子地区遺跡調査報告』に詳細にまとめられている。
 この調査で、10の旧石器時代のユニット(短期間の生活跡)が発掘され、669点もの遺物が発見された。特に目をひくのが、今のみなみ野中学校の辺りにあったNo.7遺跡である。ここで見つかった600点を超える遺物の中に、6個の細石刃と2個の細石刃核があったのだ。
  細石刃は、マンモスなどの大型動物を獲るために、2万年以上前シベリアで使われ始めた。槍の穂先状に加工した骨などの縁に、黒曜石などで作った長さ3センチほどの剥片を埋め込んだ。まさに安全カミソリの替刃の原理が利用されているのだ。こうすれば、槍の穂先が痛んでも刃を交換するだけですむのだ。
 この細石刃は、サハリン・北海道を経由して、東北・関東にまで伝播したことがわかっている。だとすると、宇津貫の旧石器人の祖先はシベリアから移ってきた人たちなのだろうか。関東ローム層という酸性土に覆われているせいか、八王子では人骨が見つかっていない。宇津貫旧人の祖先を特定することができないのが残念だ。
 一方、多摩ニュータウンの遺跡からは南九州の丸ノミ型石斧が発掘されている。これは、舟を造るための道具である。現代のインドネシアの位置にあったスンダランドと呼ばれる大陸が、地球温暖化のために海中に沈んだ。そのため、人々は、新天地を求めて海に乗り出して行った。このとき、ハイウェイの役割を果たしたのが黒潮だった。 人々は黒潮を利用することで、琉球列島を経て南九州に至った。そこで造られたのが、鹿児島県国分市の上野原遺跡である。その後四国、和歌山を経て、ついには南関東に達したのだろう。
 わずかな距離の隔たりにしか過ぎないのに、多摩ニュータウンには南からの人々が、宇津貫には北からの人々がやって来たのだろうか。いまはただ想像してみるしかない。
                                    属 雄二    (細石刃の画は「日本原人のなぞ」至誠堂より引用させて頂きました。)





           19.小比企         このページのトップ
 
 宇津貫の北辺に接して小比企の町が位置する。小比企は、湯殿川に沿って東西に長くのびる。町の形は、江戸の昔も同じだったようで、『新編武蔵風土記稿』にも、東西凡一里南北十七八町とある。そうして、湯殿川とほぼ平行に、北野街道が走っている。
北野街道を東から西へ辿ると、街の中ほどに由井第三小学校がある。本校は、明治6年(1873)5月、第36番小比企学舎として創立された。その後、明治8年、小比企小学校と改称され、一時尋常小学校などと呼ばれた後、今にいたっている。
 同校のプールの裏に、こじんまりした社が建っている。これが、村の鎮守である稲荷神社である。面白いことに、この稲荷社には、稲荷神社につきものの朱塗りの鳥居ではなく、白木のままの鳥居が小道に向かって立っている。
 参道の脇に社の略史を記載した看板が立てられている。それによると、御祭神は 「宇賀御魂命」とある。これは、古事記にある宇迦之御魂神のことであろう。建立されたのは建久元年(1190)。今日ある社殿や彫刻は、文政11年(1828)から弘化4年(1847)にかけて、途中天保の大飢饉のための中断をはさんで完成されたとある。
 天保の大飢饉は、小比企の村にも深い爪痕を残した。天保5年(1834)、村は雑穀50俵を無利息拝借金で買い入れた。更に天保8年(1837)、領主長沢壱岐守は、「窮民御救米代金」として金71両2分2朱と銀7匁を、庄屋の磯沼常右衛門から借り受けた。その中から、19両3分2朱と銀7匁7分を村人の救済に当てたという。
 小比企の町の西のはずれに近く、白旗橋がかかっている。昭和27年に架設されたこの橋の名前に関る有名な逸話が『武蔵風土記稿』に記してあるので、少し長くなるけれども書き写しておく。
 「百姓新八 氏を糖信と云 同姓のもの村内に三人あり 此氏は先祖某がとき頼朝より白旗に記して賜りしといふ 後其旗を権現に祝ひしよし 村内に鎮座する所の白旗権現是なりと云 家の墓所に文正応安等の石塔あり 土地開けしよりの民なりと知らる されどその伝ふる所はさだかならずと云」
 湯殿川の南岸は、みなみ野シティに向けて徐々に高くなる丘陵に連なる。このゆるやかな斜面は、「八王子市小比企野菜生産団地」といい、野菜畑が広がっている。八王子は東京都内有数の農業生産地であり、ここ小比企もその一翼を担っているのだ。
小比企は、八王子の中にあって、ポッと穴が空いたような静かな町である。辺りの牧歌的な景色を楽しみながらゆっくり歩けば、ひと時の至福を味わえることだろう。                                                           属 雄二
         



           20.八王子市宇津貫町の誕生         このページのトップ
 
平成11年より市町村合併が大規模に推し進められた。いわゆる「平成の大合併」である。その起因するところは、人口減少に加えて少子高齢化が急激に進んでいることである。また、長期の不況のため地方自治体が厳しい財政状況に陥っていることも、合併推進を加速した。さらに、住民の行動範囲が、従来の行政区分を超えて広域化してきたことも影響している。この結果、平成11年3月31日に3,232あった市町村数が、平成25年1月1日には1,719におよそ半減したのだった。
このような合併政策が最初にとられたのは、明治21年であった。このころ71,314あった行政区分が15,859に減らされている。治世の効率化を図ったのは勿論ことであるが、明治7年ごろから設置されてきた小学校の運営が、小規模団体では難しかったこともその一因となった。
 上記二つの合併施策と並ぶ大合併が、昭和28年から36年にかけて遂行された。「昭和の大合併」である。
  昭和25年に始まった朝鮮戦争による特需でようやく一息ついたものの、戦争終結と共に日本はまたもや不景気に陥ってしまった。このような経済状況にあって、市町村の所管とされていた新制中学校の設置・管理すら、困難になっていた。そこで、昭和28年「町村合併促進法」が議員立法により成立した。この法のねらいは、自治体の規模の適正化を図ることにより、経費を切り詰め、公共施設の建設などの公共事業費に充当しようとするものだった。法による強制ではなかったとはいえ、政府は当初から町村の数を三分の一にすることを目途としており、中央から地方自治体に対して強い要請がなされた。その結果、9,868あった市町村数が、3,472へと減少した。
 東京都においても、「大八王子」構想が打ち上げられた。これは、八王子市と、日野町、七生村、由井村、横山村、浅川町、恩方村、元八王子村、川口村、加住村とを合併させようとするものだった。しかし、日野町は、日野ディーゼルや富士電機などの大企業を有しており、経済的に八王子の犠牲になることを恐れ、結局七生村との合併を選択し、八王子との合併を避けた。
 由井村も、当初、時期尚早として合併にためらっていた。しかし、横山村、恩方村、元八王子村、川口村、加住村の5村が合併に同意したのに影響され、昭和30年2月八王子との合併に踏み切り、同年4月1日をもって八王子市に編入された。翌年9月の定例議会で、旧6か村の字を廃止することが議決され、ここに、八王子市宇津貫町が誕生したのだった。
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